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イメージの物質化と時間の層 — シルクスクリーン技法の使用 —
ここで紹介されている作品群の原点が、同じイメージを20面の壁面に描いた法隆寺金堂の飛天図をはじめとした仏教壁画であるという私にとって、イメージの“複製”が重要な意味を持ちます。如来であれ、菩薩であれ、現在残っている様々な仏教をはじめとした宗教美術は、ひとつの図像イメージ(データ)から複製され、紙、布、漆喰、木、金属、土などへ物質化された結果だと言えるでしょう。そしてそれらはさらに複製をくり返し、変容しながら国境を越えて広範囲に広がっていきました。
これは複製が価値の低いものという現代のオリジナリティー重視の一般的な考え方とは違い、何度複製(=物質化)されても現実空間に影響を及ぼす力は希釈されないという発想に基づいています。
このように、同じイメージを複製し様々な素材へと転化させる。そんなことを作品制作に於いて可能にする技法として、シルクスクリーンを使い始めたのです。また、シルクスクリーンでインクを使用する代わりに体質顔料でプリントを複数回おこなうと、顔料の層が厚みを持ちます。凸凹のある立体的な表面をつくりあげる作業は、質量を伴わないデータであるイメージが物質へと変貌を遂げる様(イメージの受肉)をより強く実感することができるのです。
またこのことは、絵画空間における時間表現とは別の時間表現、つまり、作品が成立するまでの時間の層をあらわしています。1999年以降の水彩画のシリーズの、紙にたらした水と絵の具が乾くまでの時間の記録も同じ発想によっているといえます。
イメージの採取と培養
過去の日本や東洋の文化と自分とのつながりを探り当てるという問題意識から、仏教壁画ややまと絵のイメージを作品制作のモチーフとして採取してきた私ですが、そこからどのような造形を紡ぎ出してゆくかは、その採取したサンプル自体が導きます。つくる側はそれに従って作業を進めてゆくだけです。完成予想図に会わせて造形するのではなく、イメージ自体の特性に沿った自己増殖に、少しの調整を加えることによって作品化する。従って、サンプルとなるイメージには自己完結せずに増殖するエネルギーを内包していることが必要となります。 このように、私の作品には、ちょっとバイオロジカルな表現が作品制作の比喩として適当なのではないかと考えています。
日本絵画の両義性
日本の絵画は、西洋、中国の絵画に比べ、装飾性の強さがしばしば指摘されます。装飾というのは現実空間を装飾し異空間を創造するわけですから、絵画空間に存在する描かれたイメージであるにも拘らず、現実空間にも存在可能という特性を持っています。
支持体においても、襖、屏風、絵巻といったやまと絵の代表的な支持体は、そこに絵画空間が存在しながら、手にとって開閉したり移動させたりと、現実に操作可能な道具としての性格が強く、絵画自体も日常生活に入り込んでいます。西洋の額入りのタブローや中国の軸装された絵画のような、絵の側からも、鑑賞者の側からも相互に干渉できない、互いに隔てられた異空間の存在ではないのです。言い換えればこれは、絵画(イメージ)と工芸(オブジェ)の両義性ともいえるでしょう。
また、掛軸においては古画や古書の一部をトリミング、またはカットアウトという解体作業をおこない表装することもあるわけですから、断片であるはずの物が、完結性を備えているという両義性がここに見受けられます。これは逆も可なりで、色紙や扇面に描かれた名所絵が屏風に貼り混ぜられて、洛中洛外図という集合体となり、それはひとつの集合体でありながら閉じた空間ではなく画面外への連続性が感じられ、自己完結しないという独特の宇宙観を形成しています。さらには、その解体、再構成は無機的ではなく、部分であっても作品としての自己完結性を備えている訳ですから、木の枝を折って水に生けてもやがて根を出し、一本の木として成長するかのように、無生物でありながら生物的であるという両義性もそなえています。
このような日本絵画の持つ両義性、多義性、境界の曖昧さが作品の特性となっています。
“擬態する絵画”
サンプルとなった絵画イメージはトリミング、またはカットアウトされることによって、本来の絵画空間から解放され、現実空間に存在可能な“オブジェ”となります。そして、それは平面であっても、3次元空間内で立体的に展開し、彫刻作品の様相を呈してきます。しかし、私の作品は支持体が紙や麻布、板などで、メディウムも膠やアクリル等、つまり、平面作品、立体作品を問わず、その素材はベーシックな絵画材料が殆どです。金工のようなテクスチュアの作品にしても、盛り上げた顔料に箔を貼るという、中世の西洋や、近世の日本でポピュラーだった絵画技法に過ぎず、その点では、ミクストメディアによる現代絵画の素材、技法の多様さとは対極といえるかもしれません。つまり、私の作品は、どのような表現形態をとったとしても、また、シルクスクリーンが平面にのみ可能な技法であるということからしても、“擬態する絵画”であるということになります。